第3話

第3話「夏の手前」

梅雨の朝。雨粒の流れるオフィスの窓。外にあじさいがにじむ。

六月。梅雨。

朝七時のフロア。宇佐美が三つの紙の束を並べ、定規と蛍光ペンで一行ずつ照らし合わせている。

宇佐美:おはよう。
毎朝の照合、
倉庫が三つで、
二時間かかるの。

毎朝の作業(宇佐美)倉庫3か所の締めの数を、紙で一行ずつ照らし合わせる:約2時間

律:毎朝、二時間。
全部の行を、
人の目で。

時間外は、
四月が百五時間。
五月が百十八時間。

色の抜けた記憶。紙の山と定規、転がった蛍光ペン。

前の人生の夏、
この紙の山の上で、
宇佐美さんは倒れた。

過重な労働の目安(国の労災の認定基準)倒れる前の1か月に約100時間、または2〜6か月の平均で月80時間を超える時間外労働は、仕事と脳・心臓の病気のつながりが強いと見られる

律:宇佐美さんは、
もう、越えている。

この国で、残業の上限を
罰則付きで決めた法律が
動き出すのは、四年後だ。
――待っては、いられない。

律の手元。キーボードの横に缶コーヒー。

律:毎朝、3つの倉庫の締めの数を紙で照らし合わせていて、2時間かかる。減らしたい。AI:全部の行を人が見るのをやめ、合わない行だけを人が見る形にしましょう。締めの後に3か所の数を自動で照らし合わせ、差がある行だけを一覧にして朝に届けます。差が無い日は「差なし」の1行だけです。本日の残り:1,000

律:全部を見る、から、
違いだけを見る、へ。

律:書いて。差の一覧には、差が出た理由の候補も付けて。AI:書きました。理由の候補は、入荷の登録の遅れ・返品・締めの時刻の3つです。初めの2週間は紙の照合と並べて動かし、毎日、両方の結果を突き合わせてから切り替えてください。本日の残り:611

律が宇佐美の机の横に立ち、数行だけ印字された紙を見せる。

宇佐美:差が出た行……
三行だけ?

紙の束を胸に抱えて、不安そうに目を伏せる宇佐美。

宇佐美:でも……
紙で全部見ないと、
怖くて。

律:だから、
この二週間は、
紙とこれを
両方やってください。
こっちに漏れが無ければ、
紙をやめます。

一週間後。紙の束と一行の一覧を見比べた宇佐美が、一覧の一行を指さして息をのむ。

自動の照合 6月9日第2倉庫 品番 K-2207 締めの数 48 / 棚の数 45(差 −3)理由の候補:返品の登録の遅れ

宇佐美:この行……
紙では、
見落としてた。

律:人の目は、
二時間目には、
疲れます。

晴れた朝九時。日の差すフロアに、宇佐美がほかの社員と同じ時間に出社してくる。

二週間後。

照合の結果(2週間)自動の照合が出した差:14日とも、紙で裏が取れた紙だけでは見落としていた差:3件

宇佐美の顔の大写し。ほっとして、目が少し潤む。

宇佐美:朝の二時間、
なくなっちゃった。

印字した報告を手に、眉をひそめる鬼塚部長。

鬼塚:新人。
勝手に、仕組みを
変えたな。

律:宇佐美さんの朝の二時間と、
紙の照合の見落としが、
無くなりました。

鬼塚の太い指が、印字された表の一行を押さえる。

鬼塚:……見落とし、
二週間で三件。
紙では、見つけて
なかったのか。

鬼塚:数字は、
嘘をつかんな。

鬼塚部長は、
数字には、正直だ。

鞄を肩にかけた宇佐美が、少し照れて律の席の横に立つ。

宇佐美:今日は、
定時で帰る。
……三か月ぶりかも。

夕方の窓辺から見下ろす街。夕日の中を歩いていく宇佐美の小さな後ろ姿。

七月一日まで、あと、十五日。

翌朝の会議室。黒川課長が、厚い提案書を机に置く。

黒川:秋に、倉庫の
システムを入れ替えます。
見積もりは、
二社に頼みました。

黒川:これは、もう一社の提案。
――読んでみて。

白い表紙の提案書をめくる律の手。

他社の提案書 12ページ 移行の確認の表・時刻の設定(タイムゾーン)の確認・本年3月の在庫の締めのずれ(サーバーの時刻)の再発を防ぐ

提案書を持つ律の目の大写し。凍りつく。

黒川:うちの障害のこと、
外には、一度も
話していないのに。

前の人生で、
この会社は、
提案にすら来なかった。

お知らせもう一つの窓は、あなたと同じ客先を見ています。

夜のどこかのオフィス。顔の見えない若い男が、何もない空中を見上げている。
赤い光に照らされた律の横顔。歯を食いしばる。

律:……向こうは、
AI に、
何を頼んでいる?

第3話「夏の手前」終

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この話で分かること

過労死ラインは何時間? 残業80時間・100時間とは

「過労死ライン」と呼ばれるのは、国の脳・心臓疾患の労災認定基準にある時間外労働の目安です。発症前1か月におおむね100時間、または発症前2〜6か月の平均で月80時間を超える時間外労働があると、仕事と発症との関係が強いと評価されます。

条件・例外

改正後の基準では、この時間に届かなくても、これに近い時間外労働があり、勤務間インターバルが短い勤務や身体的な負荷を伴う業務など、労働時間以外の負荷もあれば、関係が強いと評価できることが明確にされました。

物語との違い

作中の時代(2015年)は改正の前で、窓が示すのは改正前の基準の目安です。100時間・80時間という時間の数字は、改正の前も後も同じです。

出典

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この話のあらすじ

六月。宇佐美は毎朝、三つの倉庫の締めの数を紙で一行ずつ照らし合わせ、二時間を使っていた。時間外は四月が百五時間、五月が百十八時間。発症の前の一か月に百時間、または二か月から六か月の平均で月八十時間を超える時間外労働は、国が脳や心臓の病気と仕事のつながりを強いと見る目安だった。律は AI に、全部の行を人が見るのをやめ、差がある行だけを朝に届ける照合のプログラムを頼む。紙の照合と二週間並べて動かし、自動の方に漏れが無く、紙が見落としていた差まで見つけると確かめてから紙をやめる。宇佐美は三か月ぶりに定時で帰る。七月一日まであと十五日。その朝、客先の黒川課長が持ってきた他社の提案書には、外に出していないはずの三月の障害への対策が書かれていた。

作者

ka2uma

縦読み漫画の作者

仕事の現場を題材に、台本から縦読み漫画を作っています。

この作品について

2015年の開発の現場を舞台に、AI に頼むことと人がやることの分け方を、一話ずつ不具合を解きながら描いています。

制作に生成 AI を使用。企画・編集:H株式会社・利用ガイド

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